はっぴぃらんど

著者の思いを素直に綴るサイトです。(※振り返ることをほぼしません。)

これまでの私が在る「もの(=存在する何か)」

もし、明日死ぬとわかっているときに、私は今何をするか。
私だけの希望を探す。
もし、3分後に死ぬとわかっているときに、私は今何をするか。
俺って死ぬんだなぁ…って思う。
もし、直前に死が迫っているときに、私は今何をするか。
感謝の言葉を、出会った人たちや地球に伝える。

 

生きてきた過程を大切にしたい。
生きてきた過程に価値(時間、出会う意味、幸せを感じる等、訳:人の役に立つ)があるから。
生きてきた過程は思い込みが殆ど。今だけは、思い込みでは無い。現実である。

 

それが

 

”「今」の連続により、これまでの私が在る「もの(=存在する何か)」” 

 

他に表現の仕様がありません。

これが様々な角度と距離からアプローチしている私の目標であり、本質なんです。

イチ ピアサポート専門員の前向きさを説く。

☆経験談を交えることで早期に打ち解けることができた場合、的確なニーズを引き出せる可能性が高い。☆

今、相手はどうしたいのか、をまず見守り、そして話をされるようであれば聴き、同時に客観的にも観察することが必要です。
何故、今、病にかかって苦しんでいるのか?大多数の人は一生涯にそう思うことも少なからずあるでしょう。その病から何かを学ぶために、その病は訪れたのだと解釈することは一つの見立てですが、人の生理学に適した論理を突いていると思います。同じような病に幾度もかかる人は、幾度も学ぶチャンスを頂戴しているようなものです。要は、何を理解し、自身の中に腑に落ちたものとできるかなんです。つまり、何を咀嚼したかなんです。また人から見たら、同じような熱発を繰り返し起こす人でも、違った見方で様々な角度から学んでいる人もいるのです。アプローチは人それぞれなのです。例えば熱発をよく起こす人は、もしかするとイライラしがちなのかもしれません。継続的に怒りが感情の大半を支配することが多いと、精神的にも不安定になりがちとなります。そうして怒りをぶつけることもなく自身に溜めていった場合、必ず何かしらの身体的あるいは精神的症状が現れます。その結果、その方にとっては熱発という形で現れたのだと推測します。身体的症状の8割は精神的にも不安定な状態であるという関係も研究者により言われています。そうして、解熱剤を飲み、熱を下げても、また同じようなことが起こるということは、それだけ学んでないからです。私が言いたいのは、 “何かを理解”すれば、そのような熱発は起こらなくなるということを言いたいのです。
例えば、子供が膝に傷を負わなくなるのは、転ばないことを学ぶからでしょう。
さらに、よく風邪にかかる子供が、風邪にかからないようになった理由には、体力づくりや栄養ある食事など何らかの対策を取ったからでしょう。何かしら、病は学びを得るために存在するんです。
また、難病にかかり、もし万が一回復できたとしたら、その時の喜びは風邪などとは比べものにならないものでしょう。それだけ得たものも大きいのです。学んだものが大きかったということは、魂の成長にも大きく関与しているのです。
前述した生理学に基づいた論理というのはこのあたりにあり、少しでも長く生きるために、生きのびるために、魂の成長のために学びがあると考えています。そして、その学びは病というものを通して得られるのです。そして、その先にあるのは、次の人生への成長の証を、より豊かなものとできれば他に何もいうことはありません。私が前向きに生きることができる証拠を論じたところです。

前世からの私

やっと目を覚ましたかい?

おはよう、私 今頃気付いてしまったんだ?

もうとっくに始まってるんだよ

そう終わりって永遠にないけどね

 

生きている今が大切だってことに気づいて

古い過去や遠い未来ばかり見ようとして

 

暖かさや 静けさを

心で感じる

生きているという事実を

 

私は前世からの贈り物を

すでにもらってるんだよ

それに気づかないだけ

気づこうとしないだけ

ただそれだけなんだよ

 

私持ってるものは全部

創り上げてきたものだよ

それを感じて、大切にして

守ってきたよ

 

だから今 その私を

ここで見つけよう

私のスピリチュアルに対する考え方より

相手の心は分からない = 人類に共通すること だと思っています。

他者の心を知るために、どんなに方策を練り、試行実施を繰り返したにしてもたった一部しかわからないでしょう。何故なら、心とは、安心が保障され、変えようがない過去とともに成長してきました。

そう、誰からも時として自らも思い出せないほど、心のあり方は複雑かつシンプルです。(精妙に出来ており、大きく捉えると一つとして成る)その一面を共有することに何の意味があるのでしょう。

それよりも個別に存在する心のあり方を一人一人がそれぞれの形で構築していくことが最も望ましいのは言うまでもなく、明快な”生”の論理に基づいたことだと思います。あくまで普遍的な部分を知ることに意味はなく、その人のその時の特有の体験を知っているに過ぎないのです。他者が介入すると、どうしてもその影響で、本人の持つ光が曇ります。その代わり、安心は本人の中に生じるでしょう。しかし、それでは真の自身の成長は望めないのです。

そもそも、人の心を知ろうとするその動機が不純なのです。元来、人は他者に対し、どうこうしてやろうという操作的な思いを持つ者には、それなりの自身への”返し”(カルマと関係)がありました。それがヒト本来のあり方ではないのです。もし操作的になっている人がいたら、その人の心の状態は澱んでいますし、いずれ病みにつながります。人は本来誰しも尊重されるべき存在で、そのためにお互い助け合い協力しあっていくのが人のあり方です。人のことを知ろうとし、操作的になる自身の欲に目を向け、現実の自分を見つめてみることです。人は犯していい領域とそうではない領域があり、それは個人が決めることで他者が決めていいものではありません。もし他者が決定するのなら、それは立派な人権侵害です。肝要な点は、他者の許しを得ることなのです。その時改めて手を結ぶ価値が理解に至ることでしょう。

今と未来と私とあなた。

未来のあなたが笑ってなくても、語りかける今に気付いて欲しい。
今を乗り越え続けて、ここまでやってきた。
しかし、ここらでとうとう一息つこう。
そんなことを感じるひと時に、今という価値を感じる意味が訪れる。
全ては目の前に広がる、今だけの世界。
後は、その連続。
未来のあなたのために、今、笑顔を創り続けていく。
それが時の価値たるもの。
もし、未来のあなたが笑っていたら、今の自分を許してあげて欲しい。
今の自分は、未来のあなたの笑顔のために、頑張ったのだから。

文章を綴るための最良の方法を探る

今のあなたは、文章を書いても、何をどう書いたらいいのかが分からないといったところでつまづいています。あなたは文章表現は、相手があるからこそ、という立場を忘れていません。しかし、文章表現は自己表現の一つであり、あなたは自身の思いを忠実に表現していけばいいのです。極論ですが、自己表現に他者の評価は無意味です。意味するところがありません。つまり、他者評価を気にしなくてもいいんです。どのような形でも良いのです。そこに“美”が在るからです。またその美を見つけるのはあなたであり、他者でもあるのです。そのようなところにつまづいてはいけませんし、気にしては前に進めません。どのような形でも良い、何もないところから素直に出た言葉こそが本当の自己表現であり、それを綴っていくことこそが、いずれ読み手となる方に何かを伝える、最も効果的なやり方です。ただ、人には感情というものがあり、それに振り回されていては、出来るものもできないとお思いでしょう。感情のコントロールではなく、感情とともに作っていけば良いのです。そこに美が在るからです。絵には、怒りや悲しみが感じられることがあるでしょう。文章にも昔の文章表現には感情が織り混ざってあるでしょう。このように文章の中にも感情を入れてもいいんです。一番やってはいけないのは、自身を押し殺すことや、抑えることです。さらに自身をコントロールしようとするのもよくありません。気持ちを制御するよりも、解放するんです。これが健康の秘訣であり、文章を綴る最良の方法です。